昔の香港ってすごく活気があって輝いていたんですよね。
とくに香港映画がすごく勢いがあって。おしゃれでかっこよくて。
学生時代の友達が香港映画ファンだったので、私もけっこう香港映画を観てきました。
今の香港の現状について考えると本当につらいです…考えてもなかなか出口が見えてこない。
輝かしかった、あこがれた、あの映画の中の香港を知っているからこそ余計に悲しい。
今回はウォン・カーワァイ監督の香港映画「ブエノスアイレス」(原題:春光乍洩、英題:Happy Together)をご紹介したいと思います。
なんとなく、今だからこそ観てほしい映画のような気がします。(残念ながら私は公開当時は観ていません…)
ちなみにこの映画の中に香港は出てきません。
ただ、香港不在だからこそ逆に香港という”存在”の複雑さやあいまいさが浮かび上がるように見えてくるかもしれないです。
そしてこの映画で描かれるのは、3人の男性の恋愛模様のように見えて、もしかしたら香港という特殊な街(国、場所、共同体…)と、香港と一部運命を共にし励ましあいながら香港の近くて遠い傍らに強く温かく存在し続ける、ある「国」とのラブストーリーなのかもしれないのです。
以下、ネタバレあらすじです↓
物語は香港から南米アルゼンチンにやってきたゲイカップルのけんか別れから始まります。
「やり直すために」わざわざ地球の真裏のアルゼンチンまでやってきたファイ(トニー・レオン)とウィン(レスリー・チャン)ですが、ウィンのわがままさにファイは振り回されてばかり…
ファイはウィンと別れて、見知らぬ地であるアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで一人バイト生活を始めるのですが、そこにまたウィンが気まぐれにやってきて復縁をせまる。
いちゃついたり、けんかしたり、振り回されたり、受け入れたり、裏切られたり。地の果てともいえるような遠国に来ても、けして落ち着く関係にはなれない二人…。
ブエノスアイレスで一緒に暮らしている間、ウィンは必ずファイの作る、おそらく広東料理を箸で食べています。身勝手に好き勝手動き回るくせに、自分は異国であろうとすっかり適応し不器用なファイをバカにしてるように見えることさえあるのに、食事はファイお手製の広東料理に頼る。そこにはウィンのファイに対する愛情や執着や依頼心、そして故郷・香港に対する捨てがたい思いや郷愁があったのかもしれません。
やがてウィンの自由気ままで浮気な態度に嫉妬し腹を立てたファイは、とうとうウィンのパスポートを隠してしまいます。(ウィンが自分の元から逃げられないように…?)
修復不可能に思えるような泥沼の愛憎関係でも、やはりウィンのことを愛しつなぎとめようとしているのか。それとも故郷を離れ遠い遠い国で迷子のように寄る辺なく生きるファイにとってもまた、ウィンはどうしても執着し頼ってしまう存在なのか。
さて、そんなファイでしたが、転職した中華料理屋で台湾からの旅行者、チャンという青年と出会います。チャンはイグアスの滝を観にいく資金を貯めるため、ここで一時的にバイトをしていました。
やさしく人懐こく、だけど深入りはしない、ちょうどいい距離感で接してくるチャン。(ちなみにこのチャンがめちゃくちゃイケメンなんです…役者さんの名前はそのままチャンさん。チャン・チェンさんといいます)
ファイとチャンは同僚として、友人として、そして同じ中華圏から来た異邦人同士として仲良くなり心を通わせますが、やがて旅行資金がたまりイグアスへと旅立つチャンとの別れの時が来ます。
チャンはファイに多くを聞きませんが、ファイの悩み苦しみをどうにかしてやりたいと思っているのか、またはファイからの何かしら強い思い(恋愛感情なのか、友情なのか、すがりつきたい思いなのか)を感じているのか、あっさりとしつつもファイにどこか優しく温かい目を向けています。何かあればけして見捨てはしないだろうと思えるような目。
別れの時、チャンはファイに音声レコーダーを渡し、そこに悩みを吹き込むように言います。それをイグアスの滝に持っていって、あなたの代わりにあなたの悩みを捨ててきてあげるから、と。
しかしイグアスの滝にたどり着いたチャンが再生したレコーダーには、ファイの言葉は何も残されていません。ファイはチャンから録音するよう渡されたレコーダーを握り締め、ただ苦しい涙を流すばかりだったのです。
轟々と流れるイグアスの滝は、無言のファイの悩み苦しみを飲み込んでくれたのでしょうか…。
チャンとの別れののち、何か吹っ切れたように食肉加工所でバイトをし資金を貯めたファイは、ウィンを置いたままブエノスアイレスを後にします。一度自分の足でイグアスの滝に行き、そして故郷・香港へと戻って行くのでした。
ファイに捨てられ異国の地に一人取り残されたウィンがどうなるのか…そもそもパスポートは返してもらえたのか、観ていていろいろ心配ではあるんですが、ただ、一人になったウィンはブエノスアイレスの人々とともにアルゼンチン料理を食べるのでした。あの気難しく、ファイの作る広東料理を箸で食べることにこだわっているかに見えていたウィンが、フォークを握って。そのシーンで、おそらく彼がファイとも香港とも決別し、この地に根を生やして生きていくということが示唆されてるのだろうと感じました。
ファイは香港に戻る途中、一旦台湾に立ち寄ります。そしてチャンの実家が営む屋台に行ってみるのでした。(チャンに連絡先などは聞いていないようなのですが、実家のお店については聞いていた)
その台北の夜の街の明るさ、にぎやかさ、温かさたるや…。
ブエノスアイレスでのシーンはつねにモノクロや沈んだような色彩で、地球の真裏の異国に暮らすアジア人の孤独や不安がずっと画面にフィルターをかけたように陰鬱に映し出されていたのですが、台北のシーンになったとたんにぱっと華やぐような明るい画面になり、見ている私も思わず「ああ故郷だ!!アジアだ!!」とほっとせずにはいられませんでした。これは私がファイと同じ東アジア人だからなのか、そういう色調などによる心理効果なのかわかりませんが…。
チャンの実家にはチャン本人はいませんでしたが、ファイはとくに落胆した様子もなく、チャンへの伝言なども頼むことなく、ただ店に貼られたチャンの写真をこっそり一枚盗みます。
自由で旅好きなチャンは、しかししっかりと帰る場所があるチャンは、今頃どこの国を旅しているのか…。
そして「もし会おうと思えば、どこでだって会える」という確信めいた思いを持ち、ファイは台北を後にして今度こそ故郷・香港へと戻っていくのでした。
「Happy Together」という明るいエンディング曲が流れつつのこの終わりのシーンは、ファイとチャンとの関係が恋愛であれ友情であれ、この後もきっと良好に続くだろうというハッピーな予感を感じさせるものです。
きっとファイはチャンとまた再会しようとして動くだろうし、そしてきっと実際に再会できるのだろう、と。いや、もしかしたら実際には会わないとしても、チャンの存在はファイの心のどこかで支えとなり続けるだろう、と。
その力強さと自由さ。
執着もしがらみも奪い合いもない、ただ手放しで信頼していられる関係の健全さ。
で、最初に言った「これは香港と、”ある国”とのラブストーリーなのでは」という話になるのですが…
(以下、監督などのインタビューとか考察とか読んでいないので映画本編だけを観ての勝手な想像による個人的な感想文です。が、意図されたものではなく感じ取ったものを書いてみるというのもそれはそれでいいかなと思うのでこのままにします)
この映画「ブエノスアイレス」が公開されたのは1997年、じつに香港がイギリス統治から解放され中国に返還された年でした。映画の企画や撮影はもっと前からだったでしょうが、香港の人達の不安や恐れや期待や喜びがずっと高まり続けていた、まさにその時だったのではないでしょうか。
西洋と東洋の両方をアイデンティティに持ち、したたかに豊かに生きながらもどこか寄る辺ない存在であった香港の人達。中国返還を恐れ、アメリカやカナダ等の西側諸国に移住した人も多くいたでしょう。中国返還前後の彼らには何かしら道しるべや心のよりどころになる存在が必要だったのでは。
そんな時、香港にとっての心強い友人、ソウルメイトのような近しい運命を持つ慕わしい存在は、やはりなんといっても「台湾」だったのではないかと想像するのです。
これも冒頭に言いましたが、この映画には香港のシーンが出てきません。ブエノスアイレスという圧倒的に遠い「他者」と、台湾という近しい「鏡・親友」によって、もしかしたら香港という複雑なアイデンティティを持つ「自己」が描き出されているのかもしれません。
どんなにがんばっても結局心を通い合わせることができずブエノスアイレスに残ることになった元恋人のウィンと、離れていても「きっとまた会える」と確信できる運命の相手・台湾人青年のチャン。その二人との関係によって、自分の望むあり方に気づいていくファイ。
それは香港がどうありたいかと悩み苦しんだ末に見つけた、希望の道の物語のようにも思えるのです。
どこか遠くを夢見たり逃げたりするのではなく(いや、もちろん外国に移住した同胞もまたそこに根を下ろししたたかに生きていくだろうけど)、地に足をつけて、香港人であることへの誇りを持って、明るく力強く故郷に生き、だけど「もし行こうと思えば、どこへだって会いに行ける」くらい自由でいたい。
自由でありつづけたい。
きっとそうあれる。
…しかし…。その自由への思いが踏みにじられている今、1997年には想像もしなかったであろう惨状になっている今、この映画をどう考えたらいいのか…。日本人の私も香港の方々のことを思うと本当に辛くて悲しくて胸が苦しくなってしまいます…。
昨年、民主化デモをしている香港の若い人が掲げている看板の写真を見て、ハッとして胸が締め付けられました。
そこには「台湾よ、私たちの死体を踏み越えていけ」という意味の言葉が書かれていたのです。
――私たちは、私たちの民主主義は、もうダメだろう。私たちの自由は、ここで殺されてしまうだろう。
台湾よ、親友であり魂の片割れのような存在である愛する台湾よ、私たちの犠牲を乗り越え私たちの分も生きてくれ。あなたたちとあなたたちの民主主義が生き延びることが、香港に残された希望でもあるのだから――…。
それはそういう香港から台湾に向けた懇願と愛の叫びだったのかもしれません。
ちなみに…
じつは私はこのことを対岸の火事だとはまったく思っていません。日本の今の政治のおかしさ、恐ろしさを日々感じ、日本の民主主義もまた風前の灯なのでは、自滅の道をひた走っているのでは、もうじき香港のような状況になってしまうのでは、戦時中のような独裁社会に戻ってしまうのでは、と本当に本気で怯えているからです。
日本人は台湾や香港が大好きな人が多く、シンパシーを感じている人も多いと思いますが、でももし日本の民主主義が崩れてしまった時に日本にとって心の支えになるような「親友」って存在するだろうか…と思ったりもします。
日本に暮らす私たちが香港や台湾を思う時、彼らが何より大事にしている民主主義というものを思う時、日本という国の姿があらたな面から見えてきたりもするんじゃないでしょうか。民主主義にあぐらをかき、民主主義を自ら壊している日本人。それは奇怪で傲慢で苦しそうで、とても孤独な姿かもしれません…。
日本に報道の自由がない。「報道の自由度ランキング」では、民主党政権時代の2010年には11位だったが安倍政権発足以降急落。
13年53位、14年59位、15年61位、16年72位、17年72位、18年67位、19年67位。今年66位でG7のなかで最下位。
日本より下は独裁、軍事国家ばかり。 https://t.co/Ff6dVEQiSV— 清水 潔 (@NOSUKE0607) July 19, 2020
…脱線してしまいました。
悲しく残酷な現実はありますが…、世界の現状がどうあれ、この映画は紛れもなくハッピーエンドです。
道を失っていたファイは、台湾人のチャンとの出会いによって自分の生きるべき場所に戻ることができました。映画の中のファイとチャンは、もしかしたらあの後再会し、今もアジアのどこかで一緒に幸せに暮らしているかもしれない。
「もし会おうと思えば、どこでだって会える」、そして「Happy Together」。(”Happy Together”はこの映画の英題でもある)
…彼らが今生きている地は、もしかしたら台北かもしれませんね。
アジアで初めて同性婚が法制化され、今年世界中を悲劇に陥れた新型コロナウイルスもいち早く収束させた、もはやアジアのリーダーともいえるような進んだ国であり、しかしいまだに「国」としては認められていないという複雑な立ち位置の台湾。複雑だからこそ多様性を飲み込んでいけるパワーと包容力がある台湾。
その存在自体が救いだと感じる人もいるだろうし、実際にその深いふところに包まれに行く人もいるでしょう。
1997年に公開された映画で香港人男性を救い導くのが台湾人青年だったということ、これがゲイ映画であったことは、今の台湾の進んだ人権状況を考えるとメタ的にあまりにもできすぎている、神の采配のようだとすら思えてしまうのでした。
映画「ブエノスアイレス」は、今観ることでまた新しい価値があるだろうと思える映画です。ぜひ観てみていただきたいと思います。
これはある香港人の男性をめぐるラブストーリーであり、私にとっては香港と台湾という「国」同士の、熱くせつなく美しいラブストーリーでもあるように思えます。
…そしてやはり、日本人の私の目にはそれがとてもまぶしく、うらやましくも映るのです。
※ウォン・カーワァイ監督の映画はほんとおしゃれで素敵なので他にもぜひ観てみてください。おしゃれな香港が描かれている「恋する惑星」が有名ですが、私は「天使の涙」が好きかな。原題が「堕落天使」なんですよ…素敵でしょ。あと、撮影監督のクリストファー・ドイル氏が撮影したほかの作品、中国人監督と組んで北京を舞台に撮影した「緑茶」なんかを観ると、そのあまりのおしゃれさにウォン・カーウァイがおしゃれなんじゃなくてクリストファー・ドイルがおしゃれだったのでは…と思えてくるので、「緑茶」もおすすめです。