は~~~とうとうこちら!
山岸 凉子先生著「日出処の天子(ひいづるところのてんし)」をご紹介させていただきます…!
もう知らぬものはいないであろう(腐女子では)というBL界の名作中の名作!
そして新旧あまたの腐女子の心に大きなトラウマを植えつけたであろう作品でもありますね…
正直この作品について語るのは、若干気が引けるところがあります。
あまりにも大きすぎて…
あまりにも心えぐられすぎてて。
歴史上の人物、厩戸皇子(聖徳太子)を主人公にした壮大な物語となっています。
(最近の研究では聖徳太子は実在しなかったという説が有力になってるみたいですが)
そして皇子とその家臣の息子である蘇我毛人とのドラマティックなラブストーリーともなっているのです。
以下、あらすじやネタバレも含めた感想です↓
少年時代の蘇我毛人はある日池のほとりで美しい少女に出会い淡い恋心を抱きます。
しかしその美少女はじつは少年であり、毛人の父が仕える朝廷の皇子であった…
二人の少年が出会い、心を通わせ、愛し合い、しかし決定的に離れていくさまが
激動の歴史絵巻の中で鮮やかに、華麗に、しかし冷徹かつ残酷に容赦なく描かれていきます。
しかしこれはBLだけどBLって言っていいかなぜかちょっと迷うんですよね…
超能力をもった孤独な少年に仮託された、
人より秀ですぎてしまった孤独な「少女」の物語のような感覚もあるんです。
主人公が男性であるにもかかわらず、
女の情念というか憾み哀しみがその根底にあるように感じられるのです。
そしてこの作品が多くの腐女子の心にトラウマを残しているように思えるのは、
その腐女子が腐女子になった要因になんらかの憾み哀しみがあり、
そこがこの物語の哀しみに共鳴してるような…。
腐女子になった要因として、たとえば…
女性的であれない。可愛くいられない。
男兄弟の中で育ち男と同等であろうとするが、じっさいには「お前は女だろう、女として生きろ」という圧力を感じてきた。
世界にフラットに向かい合いたい、対等に勝負したいのに、女であるがために認められない。
「そこらの女の子」のように”男にこびる”ことができない、「女」という生き物として男と付き合えない、人間として認められたい、受け入れられたい、しかしそれがかなわない。
根本的に、なぜ女は男と結ばれ、男は女と結ばれるべきなのか。人と人ではあれないのか。家族や友人への愛情より男女の愛が優先されるこの世の風潮とは何なのか。
…そこに大きな疑問やひっかかり、哀しみを感じてしまう。
他にもいろいろ…
何かしらそういう要因があるのかもしれない。
腐女子になる原因が何なのかは分かりませんが、
そしてそういう原因なんか特になくてただ単にBL好きだよ~
かっこいい男の子同士の恋愛が見たいだけだよ~って人もけっこういるようではありますが。
ほんと個人的な話ですが、私に限って言うとやはり女性としての「こじらせ」がその背景にあるのは確かなんですよね…
そしてそのこじらせや哀しみが、生い立ち的にも資質的にもそして性的にもこじらせの大きい皇子の深い深い孤独ととても強く共鳴するんです。
だから皇子の愛が成就することを切に望むし、それが破滅していくさまがこんなにも胸に突き刺さるんだろうなって。
さて、ちょっとまあ腐女子というか私の話はここまでにして、皇子と毛人の話に戻りますが、
毛人が皇子と決定的に袂を別つときに言う
「男同士で生まれたからには一緒にはなれない、男は女をもとめ、女は男をもとめるもの」
というものすっごくつまらないセリフ。
(いや、いいセリフです。とてつもなく殺傷力の高い、パワフルなセリフです)
皇子とともにあればこの世界を思うままに操ることだってできる。
お互いにものすごい才能を持つもの同士、本当の魂のレベルで認め合い愛し合うことができる。
なのに毛人は「自分は男だから相手は女がいい」と。
ただ男であるから、という理由だけで女性性の象徴であるかのような布都姫を選んでしまうんですよね。
毛人はふつうの男の幸せ、ふつうの人間であることを選び、輝かしいふつうの世界へと帰って行ってしまう。
いっぽう皇子は輝かしい孤高にありながらもしかし、みじめで悲しく孤独な存在でもあるのだ…。
この作品には非凡であることの深い悲しみと苦しみ、しかしそれゆえに到達できるとてつもなく輝かしい栄光が描かれています。
同じく山岸先生の作品に「牧神の午後」という作品があるのですが、
そこにとても印象的な言葉が出てきます。
“翼を持ったものには腕がない”
”腕がある者には翼がない”
…天才にはありあまる才能と神の祝福が与えられているが、
だがふつうの人としての幸せを得ることはできない…ということなのだと思います。
人並みはずれた才能の持ち主である厩戸皇子の運命もまた、
孤高であるしかない、人としての幸せを手に入れることはできない、
ということなのかもしれません。
皇子が最後に少女を娶ることに関しても、
私には人と心を通わせるのをあきらめ、ペットやお人形を愛するようになったみたいに見えてしまいました。
しかし、愛するものと決別し、すべてを捨てた皇子は誰よりも強く美しい…
まるで神のように。
人と愛し合う腕を持つことをあきらめ、
翼を持つものとして生きる覚悟ができた人間は
神の領域に達するということなのでしょうか。
…その人ならぬ麗しきクリーチャーとなり果てた皇子と再会した毛人が、
罪悪感と憐れみ、
そしてこの期に及んで未練のような顔を見せるのがとても印象的であり
また人の悲しみとして心を打つのです。
”腕がある者には翼がない”
…神の領域にどんなに誘われてもそこに到達することはできない、
したくてもできなかった、断るしかなかった、
自分にはそもそも翼がないのだから。
そんな毛人の「ただの人間」としてのどうしようもない悲しみもまた
じつはそこにあったのかもしれません。
ちなみに…この壮絶で美しい物語は、続編の「馬屋古女王」でさらに凄惨で残酷な運命の物語として語られてゆくのですが、ぜひぜひこの続編もあわせてお読みいただきたいです!