「BANANA FISH」アニメ化/性犯罪被害者としてのアッシュについて今思うこと…

しつこいんですがまた「BANANA FISH」アニメ化で今考えたりしたことをもう一回記事にしてみたいと思います。

来年2018年に、長い長い時をへて不朽の名作「BANANA FISH」が現代の日本で、テレビ視聴者という広い層の多くの人々に向けて、どのように描かれどのように受け止められるのか個人的にやっぱりとても興味をもっています。

とくにこの部分ってどう描かれるんだろうな、慎重に大事にしてもらえたら嬉しいなあというところがあるのでちょっと書いてみたいと思います。

以下、ネタバレも含みます(話の中で「吉祥天女」のネタバレもあります)↓

前々回の記事でもちょっと性犯罪についてどう描くのか?って言いましたが…

バナナフィッシュではアッシュや英二などの少年たち・青年たちが性的な対象として標的にされていきますが、それが現代のテレビアニメでどこまで描かれるのかについて少し気になってるんですよね。

あもちろん、別冊少女コミックという超有名少女マンガで普通に連載されていたものであり普通に少女たちが読んでいたものなので、性犯罪についてのシーンがあろうがそれを今テレビアニメにしたからといって何にも問題ないんだろうなとは思っています。(というか今のアニメのほうがいろいろ過激になってるのかも?BL的なシーンについてはますますウェルカムになっていそうだし。)

むしろ時代が変わったので、それをできればごまかさずに改変せずに、ましてやBL的な美化なんてせずに、そのまま描いててくれたらいいなあと思うのです。

バナナフィッシュが連載されていた当時は少年や男性への性犯罪って日本であまり言及されたりしてなかったような気がします。(自分が子供であまり知らなかっただけかもしれませんが)

そしてなんたることか、ずっとずっと長い間、日本の刑法では男性への強姦が犯罪とされず、罪にとわれなかったんですよね…。

今年平成29年、やっと110年ぶりの法改正で男性も強姦の対象になったという…。

今年、やっと今年ですよ!?

うう…遅すぎますよね…。

1985年から1994年まで連載されていたバナナフィッシュは、男性への性犯罪が今ほどは問題視されてなかったであろう時代に、そこにずばりと切り込んで描かれたものでもあるといえるのではないでしょうか。

きっとすごく新しい試みだったんだろうなと想像します。

ほんとに吉田先生はすごい…。

性犯罪の被害者であるアッシュが、持って生まれた類まれなる能力とすさまじい努力によって、やがて自分を苦しめてきた「悪」をほろぼしていくという勧善懲悪のヒロイックストーリー。復讐をなしとげ、そして人としての愛や尊厳をふたたび獲得するというサクセスストーリーでありドラマティックなラブストーリーでもある。

…だけどですね、バナナフィッシュのすごいところは、

その復讐をなしとげたかに見えたアッシュが、強くたくましい大人の男に成長したはずのアッシュが、

最後にまるで簡単に花が手折られてしまうようにはかなく死んで(殺されて)しまうというところにあるんだと思うんですよね…。

とても悲しく虚しいことですが。

「強姦は魂の殺人」などといわれたりしますが、吉田秋生先生はそこをすごくすごくシビアに受け止めていて、もしかしたらその被害者であるキャラクターを安易に救ったり克服させたりするということをよしとしなかったのかもしれません。
(ただの個人的な想像でしかありませんが)

吉田秋生先生は同じく性犯罪被害者である少女を主人公に、男たちへ冷酷で凄惨な復讐をとげていくという物語を「吉祥天女」で描いてらっしゃいますが、そこにもやはり救いや復讐の喜びよりは、虚しさ悲しさばかりが漂っていました。

「吉祥天女」の主人公・小夜子も「レイプは殺人と同じだ」と言っていましたよね。

子供の頃にレイプされ心を殺されてしまった小夜子は”吉祥天女”という魔物に生まれ変わることで生き延びることができたけれど、
同じく幼少期に心を殺されストリートギャングのボスというある種のモンスターとなることで生き延びていたアッシュは、英二と出会い愛や人生をふたたび取り戻し…

そして人間に戻ってしまったその瞬間に、まるでモンスターの魔法がとけてしまったかのごとく”本来の死”をむかえてしまったのかもしれません。

まさにAshes to Ashes (灰は灰に)という言葉のごとく…。

少し話が変わりますが、今年リンキンパークのボーカル、チェスター・ベニントンが自らの命を絶つというとても悲しい事件がありました。

ミュージシャンとして大成功をおさめ、プライベートでも幸せな家庭を築いていたチェスターの自殺に世界中が悲しみとともに「いったいなぜ!?」との驚きにつつまれたのですが…

成功したアーティストとしてのプレッシャーや尊敬する友人の自殺などいろいろな原因があったようですが、彼をずっとずっと長い間苦しめつづけていたトラウマに「幼少期に受けた性的虐待」があり、それが自殺の大きな原因だったのではとも言われているようなのです。

私はそのニュースを聞き、心の片隅でアッシュのことをぼんやり思い出しました。

…アッシュが死に、チェスターが死んだ。

幼い頃に心を殺され、そして傍目には悪魔から無事に逃げ延び成功をおさめたかのように見えても、結局はそこから逃げられず生命を絶たれてしまった。

その苦しみは計り知れず当事者でない人間が自殺を責めることなんてけっしてできないし、そしてさっきも言ったように一度性犯罪によって魂を殺されてしまった被害者が救われるということはとてもとても容易なことではない。

そのことをふまえてバナナフィッシュのことを考えるとそのことをたとえフィクションであろうと安易には描けないのでは…と個人的に思ったのです。

また話が変わるのですが、以前吉田秋生先生が若くして薬物で亡くなってしまった俳優リバー・フェニックスについてこう語られていたことがありました。

「リバーなんていう名前をつける親に育てられたからリバー・フェニックスは死んでしまったのだ」…と。

”リバー(川)”なんていう、いわゆるキラキラネームをつけるようなヒッピーかぶれみたいな親に、親の都合や勝手な期待を押し付けて育てられてしまったから彼はその犠牲になり死んでしまったのだ、ということだったと思います。

そのインタビュー記事を読んだときは私もまだ子供であまりちゃんと理解はできなかったけれど、でもとても印象的な言葉だったのでよく覚えています。

そして先生が物事をけして表面的に見ることをせず、背景やその底に流れているものをちゃんと見よう、汲み取ろうとされているように感じたことも覚えています。

一般的な見方としては芸能界のストレスがすごかったんだろう、とか薬物に手を出してしまったのが悪い、とかそういう感じばかりだったので。

そのような物の見方、考え方をされている吉田秋生先生によって描かれたバナナフィッシュにはやはり基本的に安易さや甘えなどは許されていないように感じられるんです。

(まあ子供時代のアッシュが性的虐待を受けていることを知って「身を守るためにカネをもらえ」といった父親が、再会したときにまあまあいい人みたいに描かれていたのはストーリー重視みたいなとこもあったのかなって気がしなくもないですが。
読んだ当時は「不器用だけどけっこういいお父さんだったんだな、お父さんもかわいそう」なんて思ってしまってましたが、大人になった今では「父親なら子供をなんとしてでも助けろよ!!」って思いますから…)

子供はやはり無力だし、大人によって捻じ曲げられてしまった運命はちょっとやそっとでは覆せない。

どんなにきらびやかで甘いラブストーリーの粉をまぶしても、どんなにクールなヒーローの神話として語られていても、その下には厳然とした悲しみや虚しさが横たわっている。

そのシビアさもこの作品の大きな魅力の一つなんだと思うんです。

なのでバナナフィッシュというエッジーだけど愚直なとても真摯な作品を、テレビアニメという制約の多い場所とはいえ、今この現代だからこそ、あの熱さと冷酷さそのままに正面からどかんと描いてもらえたら嬉しいなあと思うのです。

この物語は魂の救済を描いたある種のハッピーエンドではあるけれど、でも同時にひどい悲劇でもあります。

でもだからこそ、アッシュと英二の魂の絆がとてもとても強く輝いて見える。

虚しさ悲しさを飲み込んだからこそ味わうことができる喜びが確かにそこにある。

前回の記事で20代の腐女子友達がバナナフィッシュを読んでとてもしんどがっていた、疲れきった今の日本では優しかったり平面的で清潔だったりする物語じゃないと受け入れられにくいんじゃないかな、と書きましたが、それでもやっぱりこの熱やリアルな質感に触れて私たち視聴者がまたこの現代の日本で感動を共有できたらいいなあと願っています。

(…なんかバナナフィッシュのこととなると熱くなって…長々と下手くそで自己中な文章を書いてしまいました。

ここまで読んでくださって本当にどうもありがとうございました!)

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