すっかりこのブログ、放置してしまってました…
気づいたら約2年も。
なんだろう、バナナフィッシュのアニメの時代設定が変えられてたことが無理すぎて、荒ぶりながらここで愚痴書いたことで、なんとなくこのブログすら見たくなくなってしまってたのかも…(よわすぎ)
アニメバナナフィッシュは見ないことにしたし、けっきょく実際に放送時は見ることなかったんですが…
先日友人の家で、録画されてたものをちょっと見せてもらったんです。とりあえず1話目だけ。
アッシュは髪型とか違ってても「ああアッシュだ!!」って意外なほど違和感なくてほっとしたんだけど、…やっぱりどうしても英ちゃんが無理でした…
私にとっての英ちゃんではなかった…
なので私のアニメバナナフィッシュ鑑賞は結局1話分見たか見ないかで終わってしまったのですが、でも自分と同じく熱烈なバナナフィッシュファンの友人が言うには「思ったほど悪くはなかったよ、まあ英ちゃんは別人だしすごく早足で話が進んでしまうけど」ってことだったのでとりあえずよかった(?)です。
ツイッターとか見てるとかなり盛り上がってるみたいだったしね。
まあ…、
テレビアニメではあの図書館のシーンで終わったみたいですが、バナナフィッシュの本当の本編は「光の庭」だと私は個人的に思ってるんですよね。
なので!
できればテレビでもスペシャル版とかで光の庭のアニメ化をするか、映画化するか、なにかしらやってもらえたらいいのにな…それでこそ完結する物語だと個人的には思うので。
いやでもアニメから入ったファンもきっと原作読んでるよね、光の庭読んでるよね、読まずにはおれんだろうしね。
アニメから入って原作で完結する、っていうパターンこそが美しいのかもしれないね…
ところで、このブログで以前書いたバナナフィッシュに関する記事(「BANANA FISH」アニメ化/性犯罪被害者としてのアッシュについて今思うこと…)で、リバーフェニックスについて吉田秋生先生が話されていたことにちょっと触れていたのですが。
そしてこの記事では、幼い頃に性犯罪の被害にあった人の精神が救済されることの困難さということについても、アッシュや小夜子、そしてチェスターベニントンを引き合いに語ったのですが。
つい先日、ツイッターにこれが流れてきまして…
【第92回 #アカデミー賞 】
ホアキン・フェニックスがスピーチの最後に届けたメッセージ「Run to the rescue with love, and peace will follow(愛で人を救った末に平和がやってくる)」は悲劇の死を迎えた兄リヴァーの歌詞。https://t.co/f9u2UALc5W— ELLE Cinema Japan (@ellecinemajapan) February 10, 2020
そのリンク先(毒家族に生まれてVol.4 ~理想を求めた両親が招いた息子のレイプ被害~
)を見たら、短い文章ですがリバーもまた幼い頃に性犯罪被害を受けていたということが書かれていたのです…
え…
そんな…
そうだったの…
私は以前の自分の記事を書いたときにはそのことを知らなかったのです…なので今さらの話ですみませんが…
バナナフィッシュ連載が進むうちにアッシュの容姿がリバーフェニックスにすごく似てきて、ファンの間でリバーがモデルなんだろうと言われてて、でも吉田秋生先生ご本人はモデルであることを否定はされていたと思うのですが、
しかし。
容姿に関してモデルじゃないとしても、二人の生い立ちからあまりにも若くしての死までの運命のようなものは、やはりどこかしらリンクしているのではないでしょうか。
うーーん、今となってはなんかものすごく、リバーの死は吉田秋生先生に、バナナフィッシュに、アッシュの命運に、影響を与えていたんじゃないかと思えてしょうがないな…
さっきの自分の過去記事「性犯罪被害者としてのアッシュについて今思うこと」で、「アッシュが死に、チェスターが死んだ」と書いたんですが、じっさいには「リバーが死に、アッシュが死んだ。そしてまたチェスターも死んだ」になっちゃったな…私の中では。
幼い頃に「魂の殺人」であるレイプ被害に遭うということは、よりによってその被害者にとてつもなく重い十字架を背負わせることになるのだろうな…。あまりにも理不尽で残酷だ…。理不尽だけど、なんだろう…なんだかリアルだ。
吉田秋生先生は、いったいどんな冷徹さ、または情熱をもってバナナフィッシュと光の庭を描かれたんだろうな…
そしてアッシュを救済した英二っていったいなんなんだろう…
人が人を救うってどういうことなのかな…
「光の庭」は私にとっては「優しい真実の愛の物語」、どこか美しいおとぎ話のようなところもある理想の愛の物語でしたが、でもあれは英二が負った残酷な十字架の物語なのかもしれないな…。本当はすごく生々しくリアルな物語なのかも。
英二はアッシュを救済しますが、それは彼に特別優れた資質や、生まれ持った慈悲の心があったから、というわけではないんだと思う。
むしろ特別に優れた資質がない彼だからこそ、アッシュを救うことができたのだとも思うのです。
特別な力はなくともアッシュと個人的に対等に関わり、個人的にただひたすら一所懸命に彼を救おうともがき、どんなことがあってもその手を放さず必死に彼を助け上げようとしつづけたからこそアッシュに信頼されアッシュの心を救済することができた。
でも「個人的に」、「純粋に」、人と向き合うっていうことができる人なんてこの世にいったいどれくらいいるだろう?いやむしろそんな人この世にいるんだろうか?
これってとてつもないことなのかもしれませんよね。
英二だからできた、英二にならできる、…そんな簡単なことではないのかも。
本当は英二にとっても生半可なことじゃなかった。神ならぬただの人間が人を助け上げようとすれば、その重みで腕がひきちぎれてしまうかもしれない、足が折れてしまうかもしれない。
それは全身全霊を捧げるような重たいことだった。だから彼は実際「光の庭」で、のこりの人生をアッシュに捧げていたのでは。
よく無償の愛だなんて気軽に言ってしまうけど、それってロマンやなんとなくステキなモノとして軽く消費できるようなものでは本当はないのかもしれない。ふわふわキラキラしたものなんかじゃなく、実際にはめっちゃリアルでめっちゃ困難でめっちゃ重くて泥臭くて、大きな覚悟のいるものなのかも。
「光の庭」って私にとってはすごく肯定的な物語に思えてたんですよね。
人は人を喪ってからも、その人を想いながら生きていていいんだ。「前を向かない」という生き方もあるんだ、それもまた愛なんだ、と優しく肯定してくれる。個人的にもその肯定に救われたりしました。
そして「光の庭」は「喪失からの再生の物語」と評されている。
…でもそうなのかな、とちょっと思うようにもなったんです。
「光の庭」って、喪失し傷ついた人が心の傷を癒しながら人生を再生させていくような、そんな光差す優しい「箱庭」なんだろうか?
人が人を救うってものすごいこと。
個人が個人と向き合って、個人が個人を、ただひたすらにその人の全てを受け入れ愛するっていうことは本当はとてつもなく重いしリアルなもの。
そしてその相手を喪うっていうことは、半身をもがれた状態で、喪失したまま生きるということ。
代替品を受け取ることはできるだろうけど、代替品の消費と生産を繰り返し痛みを麻痺させながら生きることはできるだろうけど、…だからといって喪失した物そのものは永遠に喪われたままだということ。
彼を死なせてしまったという悔恨の慟哭が終わろうとも、それでも再生なんかない、再生は叶わないのでは。
…これは喪失からの再生というより、喪失からの新たな覚悟のお話なのかも。喪失と新たに向き合い、喪失を新たに抱きしめる物語なのかも。
「光の庭」の「庭」って、「自分と向き合う自分だけの場所・人生」とか「人それぞれの孤独」とかを現してるんじゃないかなーとなんとなく思ったりするんです。
本当は誰もが自分の「庭」で、自分のリアルと向き合って生きるものなのかもしれない。
その庭から目を背けて外にばかり行こうとしたり、何かをひたすら生産・消費することで自分の痛みや孤独をごまかしながら生きるってことはあるだろうけれど。
何を選ぶのもその人次第だけど。
…英二はその自分の庭で、何かの代替品で埋め合わせることも自分の痛み苦しみを麻痺させることもせず、ただアッシュの喪失を抱きしめアッシュを想いながら生きていくことを選んだのでは。
う~~ん、まあここで私が何を考え何を言おうと全ては妄想でしかないけれど…
とにかく英二がアッシュに手紙で言った「ぼくの魂はいつもきみとともにある」という言葉の重さや真実味が、「光の庭」によって慰めやごまかしではないリアルな誓いとしてちゃんと完成される。「光の庭」で描かれる英二のその生き方があるからこそ英二とアッシュの魂の愛の物語が真に成立しているんだと思える。
…だから私にとって「光の庭」こそがバナナフィッシュの本編なんだよなあ…
ほんとすごいなあ……
いやグダグダと、とりとめのないことを長々書いてしまいましたが…
「無償の愛」ではなく、そこにあるのは「愛の代償」なのかもしれない。
けど、代償や喪失の大きさは、逆に言ったら英二が得たものの大きさでもありますよね。
平和ボケの国から来た平凡な大学生だった英二がNYで得た物は、人生を一変させ、その後の一生を丸ごとささげるに値するほどの、あまりにも大きく大切な物だった。
光の庭で喪失したまま生きる英二は、やはりとても幸福なんだろうと思います。
アッシュにとってそうだったように、英二にとってもアッシュとの出会いは僥倖だったのだろうと思うのです。
…英二のいるその庭には、だって光が差しているんです。